ごくつぶしぶろぐ!

Gokutsubushi's Blog

クラブ再襲撃

まだ耳がキーンとする。頭も痛い。

クラブってのは本当に理解しがたい文化だ。まあ僕がもともと酔いやすいから、あの種の眩暈を引き起こすけたたましい大音量や、目まぐるしい大画面に耐えることができないってだけなのかもしれないけれど。平気で朝まで踊っている奴らはほんとすごい。疲れてしまわないってのは純粋に身体的にすごいし、ずっと同じようなリズムに合わせて踊るっていう単調な仕事をイヤになって途中でやめてしまわないってのも精神的にすごいことだと思う。僕にはできない。

 

僕がクラブカルチャーに合わない、耐えられない人間だってことは行く前からわかってた。根暗で読書が好きで人と話すのが苦手で踊るのなんか金を積まれても勘弁してくれってタイプの僕が、クラブで他人と踊る時間を楽しめるはずがない。

でも一度行ってみたかった。一度。この「一度」が大事だと思う。一度行ってみて、それでやっぱりイヤだと思って二度と行かないっていうのと、最初から行かないまま食わず嫌いの状態をどこまでもキープするっていうのはかなりかけ離れていると思う。僕はこういう「一度」を大事にしたいと個人的に思っている。

高校のときも、ダメだとわかっていてテニス部の練習に一度参加してみたことがある。根暗なのに。もちろんテニス自体も部の雰囲気も僕には全く縁遠いものだとわかって、すぐに諦めた。興味を抱いて練習に来たくせに結局挫折したと同級生達に思われるのは恥ずかしい。でもそれでも、やらずに距離を取るより、一度その何かに接近してみてから然るべき距離を測るほうが、自分の精神衛生上良い効果をもたらしてくれるのではないかと思っている。

 

そしてクラブは実際行ってみてよかった。楽しかった。いや踊るのは絶対やだしボーっと他の人らを見てるのはなんか手持ち無沙汰だけど、新しい世界を見てみるってのはどんな状況であれやはりエキサイティングなものだ。

ただ立ち尽くして他人を見るっていう僕流のクラブの楽しみ方から言うと、今日の店はすごく良かった。個人的な好みで申し訳ないがビッチばかりだった。すごくいい。見ていて飽きない。軽い女ってのはなんでこう魅力的なんだろう。今日の店はほんとにギャル、ビッチって感じのいでたちをした女の子ばかりだった。内訳はだいたい半分が白人、もう半分が中国人と多少の韓国人。胸元は開いているし、足はさらけ出しているし、化粧はどう見ても水商売風だしで、文句のつけようがないギャルたちだった。エロマンガ家の水龍敬ってわかりますか?イメージとしてはあの作家が書く女の子のファッションに近い。すごくいい。

いや別に肌が露出していればいいってわけじゃないんだ。それはそれで素晴らしいことだけど、僕の好きなギャルってのはそういうことじゃなくて。僕の中でギャルのアイコンとして、たとえばタバコがある。今日のクラブには美味そうにタバコを吸ってる女の子が沢山いて、とても魅力的だった。自分のやりたいことを(たとえ愚かで人から非難されるようなことであれ)好きなようにやっているのがギャルのいいところだと思う。露出が多い服を自分が着たいから着るっていうのもその性向の表れの一つにすぎない。それから金を稼ぎたいから援助交際をする、とかもそう。その反社会的、アナーキーな感じに引き付けられるのだろうか。

 

脱線したが、とにかく行ってみてよかった。長時間いると疲れるけどたまに行ってすぐに帰るのはいいかもしれないな。中国には留学生はタダって店が多いし、今日の店にはなんとショータイムもあって金髪の外人がお立ち台に上がって下着姿でダンスしていた。なかなか見れるものではない。

今日のクラブで踊っていた彼女達には二度と会わない。だったら勇気を出して絡んでみていいかなと思ったのだが、さすがに踊りながらコミュニケーションを取って、なんらかの人間関係の構築という結果に結びつけるというのは僕には荷が重すぎた。ナンパ系AVとか見ているといいなあって思うんだけれど。根暗には向いてないか。

 

2時、帰りのタクシーで運転手のおじさんと会話。クラブのギャルに絡む勇気はないのに、彼には話しかける。日本のことや北京のことについて話していたらタバコを勧めてくれた。二人で吸いながら家族の話をしていたらあっという間に寮に着いてしまった。深夜タクシーなんて大変だよなと思いながら歩いていたら、クラブのことなんか全部どうでもよくなってしまった。

やはり会話なのだ。音楽をかけて踊るのは少なくとも僕には採用不可能なコミュニケーション方式だ(クラブカルチャーが言語の壁を越えていることはわかるけれど)。僕は一人部屋で本を読み、作者の言葉を噛み締める。外に出て他人と会い、言葉をやり取りして人間関係を構築する。やはり僕にクラブは向いてない。でも一度行って良かった。

余談だが、僕は中国人の中年には必ず日本人と名乗るように心がけている。中国の中年たちには必ず韓国人だと思われるし(彼らは日本人と韓国人を見分けられず、北京には圧倒的に韓国人が多い)、そう思わせておけば楽なのだけれど、そうしない。彼らに僕という日本人像を提供したいためだ。彼らの大半は日本人に会ったことはなく、テレビの抗日ドラマのお笑いみたいな旧日本軍兵とメディアの報じる安倍の姿だけによって日本人のイメージを形作っている。それでは困る。だから僕は出会ってコミュニケーションをした相手みなに日本人と名乗り、等身大の日本人のサンプルを与える作業を細々と続けている。ごくわずかな人数だが、僕が出会った人たちの日本人に対するイメージが少しでも変わってくれれば、それが積み重なって山となり、日中関係の未来に寄与するということもまあありえないではないだろう。草の根の交流ってのはつまりそういうことで、一般人のわずかなやり取り、会話の蓄積だろう。