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Gokutsubushi's Blog

『PSYCHO-PASS サイコパス』  ディストピアを描く意義。

 本格SFはストーリーの如何に関わらず、それだけで価値がありますね。個人的にサイコパスの2期には1期ほどの面白さを感じないのですが、それでも見続けられるのはSFとしての基礎みたいな部分がしっかりしているからだと思います。

 SFの基礎。それはすなわち、現実世界の「いま、ここ」にないモノを相応のリアリティをもって描いている、ということでしょう。

 裁判抜きで勝手に判断して死刑執行する、喋る銃。腕時計型デバイスから飛び出る立体映像。自動運転の車。こういう僕らの生きる「いま、ここ」にないモノが当然のように存在するSFの世界は、見ているだけで楽しい。自然科学的には、どういう原理のテクノロジーなんだろう?人文科学的には、こういうテクノロジーが人の意識や社会の在り方をどう変えるのだろう?いつか実現するのではないかと、ゾクゾクする。

 

SFのなかの「ディストピア

  『PSYCHO-PASS サイコパス』は典型的なディストピアものです。僕はSF、特にディストピア小説が大好きなので見ていてワクワクする。

 

Wikipediaディストピア

ディストピアまたはデストピア(英語: dystopia)は、ユートピア(理想郷)の正反対の社会である。一般的には、SFなどで空想的な未来として描かれる、否定的で反ユートピアの要素を持つ社会という着想で、その内容は政治的・社会的な様々な課題を背景としている場合が多い。ジストピア地獄郷とも言われる。

 

 「未来はより良い」という楽観的な進歩史観に基づくユートピア(楽園、理想郷)に対し、 「未来にはこんな危険性がある」と悲観的に空想するのがディストピア

 

 SFは作者の想像力によって「いま、ここ」ではない「いつか、どこか」にある架空のテクノロジーやら社会やらを描写するのが本業なので、現在(いま)の認識を乗り越えた時間軸である「未来」を描くことが当然多くなる。

 その未来世界を好ましいものとして描けばユートピア、好ましくないものとして描けばディストピア、というふうに便宜上の分類をされるわけです。

 

 とはいえ、ディストピアが好きといっても、ただ単に無秩序に荒廃した未来世界が見たいわけではない。僕がディストピア小説を愛読するのは、Wikiにある通り、それが「現実の政治的・社会的課題を背景としている」からです。僕がディストピア作品に期待するのは、一言で言えば「現実を糾弾・告発し、未来を変えること」です。

 

PSYCHO-PASS サイコパス』―”犯罪係数”による管理社会

  『PSYCHO-PASS サイコパス』の世界では、”シビュラシステム”と呼ばれる超高性能の「人工知能」が社会を管理している。その管理形態の骨子となるのが”犯罪係数”。シビュラは極めて高い処理能力で社会の全構成員をつねにスキャンし、その心理状態”サイコパス”を監督することで”犯罪係数”の上昇を察知、犯罪の発生を未然に防ぐ。”犯罪係数”の高い者はその行動如何に関わらず拘束され、更生施設でセラピーを受ける。

 

 このシステムの画期的な点は、「逸脱」に対する「先制攻撃」が可能であるところだと個人的に思います。

 ふつうの近代社会なら、まず立法機関が「法律」という規範を設け、だれかがそれを実際に破ってから、はじめて警察が動き出す。つまり警察と司法は基本的に対症療法、ほとんどのケースで後手に回るしかないんですね。当たり前のことですが、殺人罪は殺人が起こってから適用されます。いくら「コイツはどう見ても人を殺そうとしている」という確信があっても、触法しない限りは逮捕することはできません。

 それがシビュラの支配する社会では、「コイツはまだ何もしていないが、これから何かの犯罪を起こす蓋然性が高い」という理由で逮捕、拘束してしまえるわけです。犯罪予備軍が実際に善良な市民を手にかけるその前に、社会から隔離してしまえるわけです。なんて素晴らしいのでしょう。

 

”シビュラシステム”のもつディストピア

 一見するとシビュラの支配する社会はユートピア的ですが、それこそがディストピアの真髄です。人間のために考案されたシステムが、人間を手段にする。

 

 シビュラシステムの問題点は様々あると思いますが、ここではひとつだけ。

 「あんなヤツ殺してやると思うこと」と「本当に殺してしまうこと」との間には、信じられないほど巨大な隔たりがある。

 

 基本的に私たちは皆エゴイストで、自己のために他人を蹂躙したいと日々思いつつ、それでもなんとか思いとどまりながらギリギリの生活を送っています。

 気に食わない相手はぶちのめしてやりたい。いい女は手篭めにしてしまいたい。感情や欲望が心を突き動かしても、しぶしぶ道徳に従うのが人間のあるべき姿で、とても大事なことだと思うんです。

 頭の中で共同体の規範から逸脱してしまうこと自体は、何ら咎められることではない。「小学生児童に性的欲求を感じ、架空の少女のポルノを愛好する」ということ自体は犯罪ではない(僕個人として忌避はしますが、決して悪徳ではない)。「スプラッタな趣味を持ち、戦争を賛美する作品ばかり収集する」ことも逸脱ではない。それをコントロールしようとすると、人格を手段とすることにつながる。

 問題はそれを実行に移すのか、しぶしぶ断念するのか、です。

 

 「頭の中でこう思ったから咎める」という姿勢は、「感情」「欲望」といった人間には選べない(選ぼうとすると人格に手を加えるしかない)部分を根拠にして人を裁いている。

 自分の主体的選択に由来しない罪によって裁かれた人は、その罪に関して更生することもできません。

 

キリストの”姦淫に関する犯罪係数”

 法が「行為」のみに目を向けるのに対し、宗教は「精神」のあり方も問題にします。その点で”シビュラ”は宗教団体の教会組織的な意味合いを持っています。

 イエスは『マタイによる福音書』の中で

だれでも、情欲をいだいて女を見るものは、心の中ですでに姦淫をしたのである

 

 と言い、「頭の中で不道徳をはたらいたもの=実際に不道徳をはたらいたものと同じ罪人」であると主張しています。

 この種の個人の人格形成に関わる言説は宗教教義や教育方針としてのみ成立するものであり、制度としては成立しえないものです。

 共同体や教祖の決めた道徳基準に自分の思考をフィットさせ、頭の中でさえも逸脱が起こらないように思考を制限する。これは妄信、思考放棄であります(この問題に関してはキューブリックの映画『時計仕掛けのオレンジ』がおすすめです)。

 頭の中は煩悩にまみれ、カオス状態でありながらも、なんとか自分の弱さに打ち克ち、「しょうがねえなぁ」と共同体の規範を守る。これが判断能力のある人間の、あるべき姿であるように思えます。苦悩と葛藤がなければ、それは道徳でなく盲従です。

 

ディストピアを見て未来のために祈る

 ディストピアを見た僕たちがすべきこと。それは、未来のためにその光景を忘れないでいることです。自分や友人、子どものために、異なる未来を祈ることです。

 そうすれば、その未来は決して実現しません。人々が覚えている限り、そのディストピアの実現は激しい抵抗に遭い、空想で終わる。逆に僕たちが忘れてしまえば、そのシステムは何らかの形を取って現出してくるかもしれません。

 

 かなり脱線してしまいましたが、とにかく『PSYCHO-PASS サイコパス』はとても面白い。個人的には槙島聖護が好きだったので、なんとか再登場してもらいたい。彼は”シビュラ”の管理社会をまさしくディストピアと認識していた。現状こそがディストピアだと気付いてしまった者は、戦うしかない。