ごくつぶしぶろぐ!

Gokutsubushi's Blog

蘇州初日

以下、今日の日記から引用。


15:30

蘇州駅北出口のケンタッキーでメシ。これからバスで宿へ向かう。


蘇州駅南広場
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川と城壁が市内を守っている
城門手前の像は宋代の蘇州太守、範仲淹


揚州では、あまりにも宿のテレビのアニメのラインナップが素晴らしいので、宿代と列車代を払って1日滞在を伸ばしたわけだが、ラスト2日あたりはなかなか悲惨だった。夜から朝にかけてアニメを見ていたが、朝方はだるく夕方まで寝てしまい、肝心の観光があまりできなかった。揚州双博館は最終日に行きたかったが、起きた時には閉館一時間前で、断念した。
買い直した列車代もちゃんと発射前に駅へ行けば払い戻してもらえたのに、起きれずに74.5元をドブに捨てた。たかが1500円だが、列車代を無駄にし、わざわざ来ておいて観光もろくにできず、いったいなんのために来たんだ?鑑真の大明寺は良かったからまあいいが、もう少し揚州滞在に価値を生むことができたはずだ。

一人の部屋でアニメを見る時間は最高だった。満たされた。だが、今思えばそれも初日までだった気がする。2日目からは一人の時間が長すぎ、またずっと部屋で臥していることで、しだいに気分が滅入ってきた。日本語のアニメばかり見ているから、だんだん外で中国人と会話することもままならなくなってきた。中国語がわからないし、なにより部屋でゴロゴロしすぎて頭がぼーっとする。

3日目あたりからは、なんのために生きているんだろう、と思うようになってきた。宮崎駿新海誠を見るのはおもしろいし、人生の糧になる。得るものがあった。旅先で一人で大画面でアニメを見れたことはよかったし、そのことは後悔していない。でも、やっぱり日中はちゃんと揚州を歩いて、観光して、人と会話して、それから夜に歩き疲れた状態で部屋に帰って、アニメを見て夜のうちに眠る、こうするべきだったんだと思う。2日目からは、なんだか疲れてしまった…。いくらいい環境だからって、ずーっと見続けているのは間違いだった。

日本に帰ったら、ちゃんと生活しながら、バランスよく本が読めるようにならなきゃならない。本に関しては一日中読み続けるのがいいと思うんだけど、やっぱりここでもバランスを取ることが求められると思う。日中は外に出て人と会うほうが、長い目で見れば、家でひとり本を読んだりアニメを見たりする経験をより濃くしてくれる気がする。

いくら楽しくても、ずっと一人で部屋にいちゃ駄目だ…
だんだん気分が落ちていく。


追記

蘇州の宿を経営する娘さんとご両親の三人家族と仲良くなり、夕飯はご相伴にあずかった。なんとか中国語で歓談。その後ひとりで古い街並みを散策する。
なかなかいい蘇州観光のスタートを切ることができて、すこし救われた。明日からは街を歩き通して、揚州の失点を取り返そう。

宋代から800年ほどの歴史をもつ平江路
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揚州、鑑真の大明寺、アニメ

揚州の宿ではテレビがネットにつながっていて、日本のアニメが大量に見られるようになっている。きちんと版権を授与されているふうのものもあれば、見ているうちに画面左上に「金曜ロードショー」の表示が出てくるものもある。
いま、部屋に一人で、ビールを飲みながら『千と千尋の神隠し』を見ている。明日の朝には宿を出て、今度は揚州から蘇州にむかう列車に乗らなきゃならない。


今日は大明寺をたずねた。
鑑真のいた寺だ。


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仏塔
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鑑真和尚像
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友好の御心つたう灯に和櫻はゆる古里の寺
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鑑真は最古の日中友好大使、文化の伝達者ということで、1963年の渡来1200周年の節目に、日中でここ大明寺に鑑真記念堂を建立したようだ。その際、鑑真が日本に建立した唐招提寺の当時の和尚が、ここに灯籠を贈り、また日本から持ってきた桜を植えたらしい。

鑑真。5度に渡り東シナ海の渡航に失敗し、失明したのち、60代後半でやっとこさ来日した唐の高僧。今の俺は高僧でもなんでもないのに3時間で日中を行き来できる。ありがたいことです。

中国の寺、とくに仏像が好きだ。内モンゴル自治区で見たチベット仏教の寺の仏像の数々は見事だった。禍々しいRPGのボスとかクトゥルフ神話の神々が好きな人には特におすすめです。


千と千尋の神隠し』おもしろい。日中は遅く起きて観光し、この3日で夜から朝にかけて『風立ちぬ』『おおかみこどもの雨と雪』『千年女優』『蛍火の杜へ』なんかのアニメを青島ビール片手に見た。旅先で一人で見るアニメ。多幸感。

南京から揚州へ

終戦70周年の8月15日は、南京で迎えることになった。

南京は平和だった。


以下、日記から転載。

「南京は平和だ。
着いた途端ににわかに抗日のにおいが立ち昇るのでは、とどこかで思っていた自分が馬鹿らしい。百姓の暮らしぶりは北京となにも変わらない。」
(※百姓は日本では差別語かもしれないけど、中国語では庶民の意味で、農民だけのことを指すわけではない)


市内中心部の駅地下街では、ユニクロと寿司屋が並んで店を出していた。駅の入り口でワンピースのゾロのTシャツを着た青年とすれ違った。奥の無印良品は繁盛していて、くまモンのTシャツを着た女の子が商品を物色していた。

泊まった宿はなかなか落ち着かない四人部屋だったが、同室の奴らとすぐに仲良くなった。同い年の南方人と、日本のアニメやゲームについて遅くまで歓談した。奴とは連絡先を交換した。いま神戸で働いていて、日本語の話せる女の子もいた。


一方では15日に安倍談話が発表され、現在中国のメディアには、日本バッシング的な傾向が強く見られるようになっている。検索サイトに行くと「ネットの反応」がどうたら、といったこれ以上ないほど不毛で無価値な見出しで安倍政権を非難するニュースが嫌でも目につく。そしてこれは日本のYahoo!ニュースや産経ニュースでも同じことが起きているように見える。


正直、勘弁してくれと思う。
混乱している。
俺が実際に出会い会話する人々の態度と、ネットの言論とのあいだに大きな断絶がある。

中国だろうと日本だろうと、まともな人、ふつうの人は日常を生きている。仕事をし、学校へ行き、家族と共同生活を営み、他人と関わり合いながら生きている。おれが中国でいま出会っているのは、そういう人たちだ。外に出て、人と会ってやり取りをしている人たち。そこには常識があり、最低限の作法のようなものがある。共生の作法が生まれる。自分のことを考え、他人のことを考え、バランスを取って生活していくようになる。

残念ながら「ネットの反応」をかき集めて束にしても、それはなにかの代表的な知見や常識感覚にはならないと思う。ネットに張り付いてコメントをしている人も、それをSNSから恣意的に拾ってきて記事にする人も、とてもじゃないがまともな生活者ではないから。どこの国でも、ネット上の顔の見えないやり取りに多大なエネルギーを割いている人たちは一般的な生活者ではないように思う。

中々まとまらない。混乱。

つまりこういうことだ。
俺は遠く離れたところから、勝手に南京が反日的な雰囲気に包まれていると思い込んでいた。でも実際にその地に住んでいる人たちっていうのは、ふつう、毎日働いて、学校へ行って、人と会って暮らしているわけで、それが生活の主軸だから、ナショナリズムとかの大きな物語に夢中になったりはしない。むしろ日本のキャラクターやブランドが消費財として共有されている。
ほとんどのまともな生活者は、だから、ネット上のニュースやなんかにカーっとなったりはしない。みんながちゃんと自分の日常、仕事とか家族とか、それに専心している社会は大丈夫。そこから他人との付き合い方を経験的、実践的に体得し続けていくから。
やばいのは、日常を主軸にしていない、ネット上の出来事にカーっとなれてしまう奴ら。Yahoo!ニュースのコメント欄、ニコニコニュースのツイッターによくいる、近づいてはならない感じのするあの人たちだ。そういう人たちのコメントやニュースがネット上で蔓延すると、社会にやばい雰囲気が広がる。


いろいろ考えすぎて書ききれない。
とにかく南京に来てよかった。

良い文章

良い文章を書くということについてすこし考えた。ここで言う良い文章とは、読者に筆者の意図が齟齬なく伝わる、読みやすい文章のこと。

伝える内容が高度になれば、読み手がそれを完璧に受け取るのも当然難しくなる。いま僕が書いているこの文章のように簡単なことを伝えるなら、この程度の簡単な文章を以ってすれば事足りる。だけど、もっと複雑で、読者の思考の枠組みを越えていくような深い内容を伝えるのなら、それに合った語彙だとか、文全体の組み立てが要求されてくる。内容のレベルに合わせて、その乗り物たる文章のレベルも求められる。

だから、簡単なことを伝えているのに、それに不釣り合いな難しい文章を作っちゃうのはあまりうまくない。簡単なことを難しく言ってしまうのは、伝える内容をあえて難しく見せようとしているからだ。つまり背伸びしてる。

裏サンデー | しょじじょうにつき。 | 第1事情

さっき裏サンデーで何となくこの漫画を読んだんだけど、主人公の女の子がニーチェに傾倒してるって設定らしくって「神は死んだ」とかなんとか連呼してるのが気になった。「家畜」とか「超人」とかとにかくニーチェっぽい用語を持ち出すんだけども、なんか違和感が。
だいたい察したと思うけど、僕は彼女を見て「ああ、背伸びしてるんだなあ」と思ったわけです。こういう文章(台詞)はあまり良くないと思う。内容と言葉(=文章)がアンバランスなんですね。
ニーチェ好きな彼女の言っている内容自体はとても庶民的、ガールズトークに似つかわしい雑談だと思う。だからべつに偶像とか唯物主義とかの耳慣れない言葉をわざわざ使わなくたって伝えられるし、簡単な言葉で言ったほうがよっぽど伝わりやすいんじゃないかな。「どうしたら救われた気持ちになるか考えるより、いまの生活をエンジョイする努力をするほうが精神的な満足につながるんじゃない?」とかそんな感じで。
あえてニーチェを持ち出すほどでもないんだから、だったらわかりにくい言葉で聞き手を混乱させるのはあんまりうまい話し方じゃないでしょう。

文章を書いたり言葉を話したりするのって、いちばんの目的は「相手に内容を伝える」ことのはず。それなのに本来不要なはずの難しい言葉を持ち出すのは、相手のためじゃなく、自分が学を衒うため。背伸び。

ここで西谷修のブログから一段落だけ引用を。
言論工房 Fushino_hito

人権の確立や労働条件の改善、社会正義の促進を目的とした国際労働機関(ILO)というものがある。銘記すべきは、この機関が第1次大戦直後に設立され、第2次大戦後の国連創設の際にも最初の専門機関となったことだ。それは社会の大多数を占める労働者の地位改善が、社会の安定や繁栄、ひいては戦争の回避に不可欠だと考えられたからだ。裏を返せば、労働状況の劣化が社会や人心を荒廃させ、各国を戦争へと向かわせたという切実な反省があった。

これなんか僕は良い文章だなあと思うわけです。
ちょっと難しい言葉、耳慣れない言葉を使ってはいるんだけども、それらが全く違和感なく文章のなかに配置されていて、逆に読者のスムーズな理解に貢献してる。そのレベルの用語を使うべくして使ってる。内容と文章が見事にマッチしてて読みやすいですね。
文中に熟語の連結した表現が多いのが見て取れるかと思います。「人権の確立」「労働条件の改善」「社会正義の促進」「社会の安定や繁栄」「戦争の回避」「労働状況の劣化」こんな感じで主語と述語が「の」で繋がってるやつ。これは英語的表現で、ちょっと学術的な響きがある。口語的ではないですよね。こういう高度なテーマの書き言葉では、この種の表現が好まれるわけです。逆に話し言葉、台詞だと「人権をまもること」とか「労働条件をより良くすること」とか、もっとくだけた言い方をするとより良く聞き手に伝わるわけです。

読んでくれればわかると思うけど、僕のこのブログはどちらかと言えば敷居の低い文章を書いているわけです。このブログはそんなに高度な内容を伝えることを使命にしていないので。だから学術的な響きのある「内容の伝達」「語彙の選択」のような表現は避けて、「内容を伝えること」「〜な言葉を使う」というような口語的表現を選んでいるわけです。
つまり、伝えたい内容のレベル、テーマに合わせた文章を作っていきたい、それが良い文章になるだろう、ということ。シンプルな思考のときはかみ砕いた表現で伝えて、大学で論文を書くときは必要に応じてそれ相応の用語を使っていきましょう、ということ。

右翼になった友人の一言。

一時帰国。

小学校からの友人と渋谷で飲んだ。彼はいまどき珍しい昔気質の右翼青年。そのへんのネトウヨ大学生とはモノが違う。歴史を紐解き、日本の伝統を知り、体現することを日々心がけている。
いろんな講演会、勉強会に出ていろんな人と会っている。右翼団体でバイトもしていたし、神社本庁の人間ともつながりがある。平素から和歌を詠み、唐詩を作り、雅楽を奏でる。

そんな彼とぐだぐだとサシで話をした。
彼の台詞で最も印象的だったのが

「俺がいちばん共感するのは終戦後も東南アジアに残って戦った日本兵」。

なるほどと思った。
天皇でもなく、軍部でもなく、一般庶民でもなく。状況に翻弄されながらも最後に自分の意志でアジア解放のために残った日本兵。彼らはアジアを西洋から解放する使命をたしかに全うした。
これなら俺も納得。中国人に対してもこれなら言えそうだ。ありがたい。

コミュニケーションという試練

リア充」になりたい。人と会話をして刺激を受けて成長したい。

 

すでに2時を回ったが、寮のロビーにはフリーWiFiを求める留学生たちが5,6人陣取っている。僕もそのひとり。見たところアメリカ人らしき雰囲気の学生が多い。たぶん夏休みに入ってアメリカの提携校から団体で短期留学にきているんだろう、最近学校でアメリカ人ばかり目に入る。彼らは人種がバラバラなくせにどこか統一された雰囲気をまとっていて、わりと人目でそれとわかる。少なくとも欧州やアジアの学生よりはよっぽどわかりやすい。

2軒となりのソファーにPCで『君に届け』を読んでいる女子がいる。東アジア系の顔に韓国風の化粧と長い黒髪で見た目だけではとても欧米人には見えないけど、雰囲気はアメリカ人っぽい気がするし、なにより読んでるマンガが(遠くてよく見えないけど)横文字に翻訳されている。それが英語でないにしても欧米人には違いない。大方のところ母語が英語で中国語を学びに短期で北京に留学しにきた在米華人というところだろう。

彼女がずっと『君に届け』を読んでいる。

 

話しかけたくて仕方がない。

いや別に下心があるわけじゃない。黒髪ロングといっても正直にいって可愛いとか綺麗とかいう部類に入るわけではないし、たとえ美人だろうと村上春樹の主人公じゃないんだから女とのコミュニケーション=寝ることだと思ったりはしない。そうじゃない。ただ話しかけたいだけなんだ、本当に。日本のマンガに興味がある外国人に日本人が外国で出会ったんだから、せっかくならなにかしらの接触をもちたい。べつに人間関係を構築してどうにかなりたいわけではなくて、ただただ会話をもちたい。

でも、どうしたらいい?どう話しかけたらいい?わからない。

きっかけがつかめない。いや違う、きっかけはそれこそ今この「日本人の前で日本のマンガを読んでいる」って状況で充分用意されてる。あとはこっちがどう踏み込むかの問題。それが、あと一歩がどうにも踏み出せない。どの方向にどのくらいの勢いで踏み込めばいいのか、一歩目を踏んだあとはどう連携していけばいいのか、もうわからない。どうしたらいい?

わからない、という態度を表明してることがたぶん問題の本質なんだろう。「リア充」はいちいちコミュニケーションで出すカードを吟味して手札を万全にしてから会話に臨むわけじゃないと思う(そういう努力家もいるかもわからないけど)。結局のところ会話は出たとこ勝負だ。こうやって話す前にうじうじ悩んで時間と機会を浪費していくのがいちばんの問題、「非リア充」たる由縁にちがいない。コミュニケーションを始める前から逡巡して自己完結するから、結局ネット上での匿名のコミュニケーションしかできなかったり、他者が存在しない自分の趣味の世界に没頭することしかできないってことにもなる。まず話しかけるしかないんだ。話はそれからだ。

 

こんなことを考えているうちに彼女は部屋に戻ったらしい。

 

僕はなんでこうなんだろう。

実はさっきも隣に座った中東系の男と二言三言会話したんだけどこっちが全然喋れなくてダメダメだった。彼のほうは僕の読んでる本を見て日本人?とか聞いてくれたりして、歩み寄ってきてくれてたのに。うまく会話できないからますます強く出れなくなって会話のぎこちなさに拍車がかかる。しばらくして彼は恋人らしき女性と合流、ロビーから去っていった。僕はうまく会話ができなかったことを気まずく思って黙っていたのに、彼は去り際に僕の肩を叩いて声をかけてくれた。すごいと思った。ふつう日本人同士ならあんなふうに微妙な空気になったあとは何も言わず立ち去るのが相場なのに。

 

会話を始める前から逡巡してる。

会話がうまくいかないからって気にして萎縮してる。

 

だめだだめだ、克服しよう。今ならできるはず。せっかく外国に来て非日常が日常になってるんだから、日本でできなかったことをやろう。実験場だ。今出来なきゃ絶対日本でもできない。

根暗は僕の大事な一部分だから完全に消し去ろうなんて思わない。こうしてつまらないこと(他の人からみてつまらない些事に思えること)に悩んでうじうじ考えて文章をくどくどと書くのも自分の大事な本性だ。でも、生まれるはずだったコミュニケーションを逃すのはもうイヤだ。勇気を出して踏み出したことで生まれた人間関係や新しい体験がいっぱいある。こういうのをこれからも増やしていくんだ。根暗なままでもいい、自分からコミュニケーションが取れるようになりたい。

おすすめブログ紹介

言論工房 Fushino_hito

フランス思想研究家西谷修の時事ブログ。

時事についてのコメント、雑誌や新聞に寄稿した記事の再録がメイン。

たった1年大学の教養科目で講義を拝聴しただけだけど、僕が最も尊敬する学者。その見識の確かさも魅力の一つだが、それ以上に人として魅力的な教授だった。有り体に言えば話が面白い。先生の講義を拝聴して、この大学に入ってよかったと本気で思った。こんな講義を聴けるのならそれだけでもう大学生活の元は取れるんじゃないか。

 

内田樹の研究室

こちらもフランス思想研究家の内田樹の時事ブログ。

同じく時事ネタ、記事の再録がメイン。

こちらは実際に会ったことはないがいかんせん売れっ子なので著作は何作か読ませてもらっている。内田の文章はとにかくわかりやすい。学者の書いた文章によくある専門用語だらけで入って行きづらい雰囲気がまるでない。彼自身も自分はあらゆる問題に関して「素人」だと言い切っていて、専門家ぶって文章の敷居を高くしないように努めているようだ。

 

d.hatena.ne.jp

SF、新書、文学、実用書など幅広いジャンルの書評を掲載しているブログ。

SFや実用書の中に出現する理論やシステムを自分なりに分析するような切り口がとても面白くて感心させられる。伊藤計画や円城塔の書評が面白かった。

 

ねこねこブログ - livedoor Blog(ブログ)

主にゲーム、SF、文学などの書評、レビューがコンテンツのブログ。

内容はけっこうニッチなんだけどすっごく面白い。なんでもないようなゲームやアニメの物語の中に社会科学の思想や古典的作品の影響を見出して、それらの「元ネタ」と一緒に分析、評論する。その目の付け所に思わず唸る。

たとえば『スペース・ダンディ』の最終回、主人公のダンディは神になることを拒否してまた第一話の冒頭へと回帰するのだけど、このブログはこれをニーチェツァラトゥストラはかく語りき』の永劫回帰エンドだと指摘する。そして一般相対性理論を引用して、量子宇宙における永劫回帰についてSF的に考察する。

また別の記事では同じ『スペース・ダンディ』の作風について「いき(粋)」なアニメであると賞賛し、現在日本で主流のアニメが「いき(粋)」と対極的に「近代恋愛的超越性への帰属」を物語の中心に位置づけていることを指摘している。

 

以上のブログはどれもおすすめなのでぜひ読んでみてほしい。僕のブログを読むぐらいだったら絶対にこっちを読んだ方がいい。どれも古典や有名な思想をよりどころにして時事や現代の作品をとらえているから、読んでいて「なるほど、この思想はこう使うとハマるのか」と勉強になる。なにより4つとも文章がうまい。読ませる。