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Gokutsubushi's Blog

日本のカタカナ英語は恥ずべき文化か

ビリビリ動画を見ていたら、日本のアニメに出てくるカタカナ英語を揶揄する弾幕が流れていた。
中国に限らず、日本の英語発音を奇異に思う外国人の声はふだんからよく聞こえてくる。たしかに日本語のなかの外来語はもともとの外国語とは似ても似つかないことが少なくないし、生来よりそういう発音をしている日本人が英語ほかの外国語を話そうとしてもなかなか思いどうりにはいかないものだ。

言語を話すとはどういうことだろう。
外国語を話すとはどういうことだろう。

日本語は、横文字に日本風の発音をあてがう(フリガナを振る)ことで、外来語を日本語のうちに取り込む。computerはおそらくカンピューラァとでも表記するほうが現在のアメリカ英語の発音に近くなる(あくまで近づくだけでカタカナを使う限り一致はしない)だろうが、日本語はコンピューターというカナを振る。なぜかはわからないが、このほうが日本語として収まりがいいし、綴りから連想しやすいからかと思う。とにかく外来語を日本語にしようとすれば発音は外国語から遠くなる。
これは奇怪なことだろうか。恥ずべきことだろうか。もともとの外国語の発音に忠実にせねばならないのだろうか。

そもそも、「外来語にカナを振って日本語化する」という日本の外国語吸収の作法は、横文字を受け入れるときにやっと始まったものではない。
それは漢字の伝播からすでに始まっていた。

日本にはもともと音声言語としての日本語(大和言葉)はあったが文字はなかったので、大陸から漢民族の使う漢字を輸入してきて、日本語の文字として使ってしまうことにした。『大』ならdai、『小』ならsyou、というように、大陸の呉音をベースにしながらも、日本語の音韻システムに即したフリガナをそれぞれの漢字につけた。また中国語に近い音読みのほかに、大和言葉を意味の近い漢字にあてがう訓読みも考案した。こうして大和言葉を書き記す文字であるとともに、中国人の書く漢文をそのまま訓読することが可能な、日本の文字が誕生した。

外来語にフリガナをつけて、日本語にする。
このやり口を恥ずかしいと思うのなら、『大』を中国語に忠実なdaと読まず日本でしか通用しないdaiという音で読むこと、『読』をduと読まずに大和言葉を勝手に当てただけで似ても似つかないyo(-mu)と読むこと、これも同様に恥じねばならない。
つまり、外国語にフリガナを振って日本語化することは、横文字の輸入に伴って始まった悪習などではなく、日本語という言語の本質そのものなのである。日本語のカタカナ英語を否定することは日本語の漢字使用を否定することであり、そこから派生した片仮名・平仮名を否定することであり、日本語の存在を否定することに他ならない。

では、日本語だけがこのような擬制のうえに成立した言語なのだろうか。
否。フリガナを振るように、もともとは違う発音が当てられていた文字にオリジナルの発音を当ててしまうことは、文字というものそのものの普遍的な本質である。

中国語から議論しよう。先ほど『大』の「もともとの」発音はdaであると言ったが、ここにすでに欺瞞がある。「もともとの」発音とはいったいどのような発音のことだろうか。
漢字は象形文字かつ表意文字だ。それは本質的には絵文字であり、伝達するのは意味のみで、音は決定しない。『木』は一本の木の絵なのだ。意味は決定されているが、読む音は自由。その点で、漢字は数学記号に似ている。私たちは『+』を「プラス」と読んでもいいし、「たす」と読んでもいい。どちらでも、意味は不変。
ゆえに漢民族は漢文でなら意思疎通が可能だが、ちょっと地域が変わると発音がまるで違うものになり、口頭による会話が成立しないという状況が長く続いてきた。大半の幹部は会議で毛沢東の中国語を聞き取れていなかったという。
漢字に「正しい」「もともとの」読み方などないのだ。北京においては北京語が正しい読み方だし、広東においては広東語が正統だという他ない。ゆえに日本語の漢字の読み方も、大陸のそれと対等である程度の「正しさ」は持っているともいえる。

最後に英語を検討して結論に行こう。私たちは英語と似ても似つかない発音をしてしまっているということでときに揶揄され、ときに自らコンプレックスを抱くわけだが、そのオリジナルたる英語にはいかほどの権威があるだろうか。
英語は言うまでもなくラテン語ギリシャ語から派生してきた言語である。そのラテン語も文字は自ら創ったわけではなく、メソポタミアからアルファベットを借用してきて自分の文字とした。日本と同じだ。そして自分の言語の発音に即したオリジナルの発音をあてがう点も同じ。
もはや言わずもがなだが、英語も、その根源たる古代言語も、なにかの借用のうえに成立した言語なのだ。フリガナ外来語を笑うものは、nationをギリシャ語に忠実なナシオーンと読まずにネイションと読むアメリカ人のことも同様に笑わなければ筋が通らない。
そしてたとえオリジナル中のオリジナルであるメソポタミアのアルファベットや古代中国の甲骨文字を使う強者が居たとしても、それが最もオリジナル的であるように思われるということは、なんの権威付けにもならない。言語とは、相手との意思疎通のために用いるツールのことだ。相手が「コンピューター」の発音を聞いて、「ああ、あれのことだな」とわかってくれれば、それでいいのだ。そこに「意図の伝達の正確さ」以外の意味での「正しさ」など存在しない。共同体のなかで通用するなら、それでいい。
ソシュールは言語を恣意的なものと断定し、言葉の持つ意味の範囲を価値と呼んだ。その価値がわかるもの同士が言葉を交換する。言語とはそれだけのことでしかない。このへんに関しては橋爪大三郎『はじめての構造主義』おすすめ。

日本固有の文字は「片仮名」「平仮名」だが、これは読んで字のごとく、仮の名なのである。仮名は漢字を変形させた文字であり、漢字を真の名とすれば、それは仮の名であることに間違いない。日本人はそのことをよくわかっていて「仮名」と名付けた。その点で昔の日本人は自国の文字の恣意性に自覚的だった。
そしてそれは日本語のみの問題ではないのだ。すべての文字は他の誰かからの借用であり、あらゆる発音は「伝えたい相手にちゃんと伝わる」というただ一点のほかに正当性をもたない。
言語は恣意的なものなのだ。

結論。
あらゆる発音に正当性などない。みな同じ程度に勝手な「フリガナ」でしかない。
言語とは、それを共有する身内の中だけで流通するもの。日本語は日本語話者がやり取りできればそれでいいし、他の言語も同じ。
それを共有しないもの(外国人)が外からその言語を見ると、変だとか間違っているといった感想をもつ。そいつらは外国語をちゃんと勉強したことがないし、言語の恣意性について考えたこともないアホなので、気にすることはない。