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ごくつぶしぶろぐ!

Gokutsubushi's Blog

良い文章

良い文章を書くということについてすこし考えた。ここで言う良い文章とは、読者に筆者の意図が齟齬なく伝わる、読みやすい文章のこと。

伝える内容が高度になれば、読み手がそれを完璧に受け取るのも当然難しくなる。いま僕が書いているこの文章のように簡単なことを伝えるなら、この程度の簡単な文章を以ってすれば事足りる。だけど、もっと複雑で、読者の思考の枠組みを越えていくような深い内容を伝えるのなら、それに合った語彙だとか、文全体の組み立てが要求されてくる。内容のレベルに合わせて、その乗り物たる文章のレベルも求められる。

だから、簡単なことを伝えているのに、それに不釣り合いな難しい文章を作っちゃうのはあまりうまくない。簡単なことを難しく言ってしまうのは、伝える内容をあえて難しく見せようとしているからだ。つまり背伸びしてる。

裏サンデー | しょじじょうにつき。 | 第1事情

さっき裏サンデーで何となくこの漫画を読んだんだけど、主人公の女の子がニーチェに傾倒してるって設定らしくって「神は死んだ」とかなんとか連呼してるのが気になった。「家畜」とか「超人」とかとにかくニーチェっぽい用語を持ち出すんだけども、なんか違和感が。
だいたい察したと思うけど、僕は彼女を見て「ああ、背伸びしてるんだなあ」と思ったわけです。こういう文章(台詞)はあまり良くないと思う。内容と言葉(=文章)がアンバランスなんですね。
ニーチェ好きな彼女の言っている内容自体はとても庶民的、ガールズトークに似つかわしい雑談だと思う。だからべつに偶像とか唯物主義とかの耳慣れない言葉をわざわざ使わなくたって伝えられるし、簡単な言葉で言ったほうがよっぽど伝わりやすいんじゃないかな。「どうしたら救われた気持ちになるか考えるより、いまの生活をエンジョイする努力をするほうが精神的な満足につながるんじゃない?」とかそんな感じで。
あえてニーチェを持ち出すほどでもないんだから、だったらわかりにくい言葉で聞き手を混乱させるのはあんまりうまい話し方じゃないでしょう。

文章を書いたり言葉を話したりするのって、いちばんの目的は「相手に内容を伝える」ことのはず。それなのに本来不要なはずの難しい言葉を持ち出すのは、相手のためじゃなく、自分が学を衒うため。背伸び。

ここで西谷修のブログから一段落だけ引用を。
言論工房 Fushino_hito

人権の確立や労働条件の改善、社会正義の促進を目的とした国際労働機関(ILO)というものがある。銘記すべきは、この機関が第1次大戦直後に設立され、第2次大戦後の国連創設の際にも最初の専門機関となったことだ。それは社会の大多数を占める労働者の地位改善が、社会の安定や繁栄、ひいては戦争の回避に不可欠だと考えられたからだ。裏を返せば、労働状況の劣化が社会や人心を荒廃させ、各国を戦争へと向かわせたという切実な反省があった。

これなんか僕は良い文章だなあと思うわけです。
ちょっと難しい言葉、耳慣れない言葉を使ってはいるんだけども、それらが全く違和感なく文章のなかに配置されていて、逆に読者のスムーズな理解に貢献してる。そのレベルの用語を使うべくして使ってる。内容と文章が見事にマッチしてて読みやすいですね。
文中に熟語の連結した表現が多いのが見て取れるかと思います。「人権の確立」「労働条件の改善」「社会正義の促進」「社会の安定や繁栄」「戦争の回避」「労働状況の劣化」こんな感じで主語と述語が「の」で繋がってるやつ。これは英語的表現で、ちょっと学術的な響きがある。口語的ではないですよね。こういう高度なテーマの書き言葉では、この種の表現が好まれるわけです。逆に話し言葉、台詞だと「人権をまもること」とか「労働条件をより良くすること」とか、もっとくだけた言い方をするとより良く聞き手に伝わるわけです。

読んでくれればわかると思うけど、僕のこのブログはどちらかと言えば敷居の低い文章を書いているわけです。このブログはそんなに高度な内容を伝えることを使命にしていないので。だから学術的な響きのある「内容の伝達」「語彙の選択」のような表現は避けて、「内容を伝えること」「〜な言葉を使う」というような口語的表現を選んでいるわけです。
つまり、伝えたい内容のレベル、テーマに合わせた文章を作っていきたい、それが良い文章になるだろう、ということ。シンプルな思考のときはかみ砕いた表現で伝えて、大学で論文を書くときは必要に応じてそれ相応の用語を使っていきましょう、ということ。