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ごくつぶしぶろぐ!

Gokutsubushi's Blog

寧波初日

遡って寧波初日の日記から転載

2015/08/26

16:53
日本の子どもは小さい頃から他人に迷惑をかけないようにとしつけられるが、中国にそうした傾向はあまり見られない。パブリックな場で子どもの行動を他人に迷惑がかからないように監督してコントロールしようとしているように見える親はほとんどおらず、子どもが他人に何かしてしまっても謝らせようとしないし、親もあまり謝らない。しつけて社会性を養うより、自由気ままにふるまわせて、子どもの好きなようにさせようという印象を受ける。
なるほど、この中国人たちが日本に来れば、子どもも含めた社会の成員の社会性の高さに驚嘆するかもしれない。そしておれは日本のほうが好きだ。赤信号で止まり、ゴミを捨てず、痰を吐かない国のほうが好きだ。列に並び、ぶつかれば謝る人のほうが好きだ。たとえ高すぎる社会性が個々人のコミュニケーションや経済を停滞させるとしても。

だが中国が無法地帯なわけではない。中国人には中国人の秩序の原理がある。それを知りたい。


17:27
寧波駅着。
もはや言うまでもないが、駅を出た途端「打車打車打車」に見舞われる。白タク(中国語では黒車)の客引きだ。しつこくされる前に退散し、乗るバスを見定めてからバス停に一直線が吉。
バス停では黒車運転手が客引きしながら、脇で乞食がバスを待つ客に近づき、お碗を鳴らして施しを求める。客はみな乞食が接近すると黙り込み、視線を外して、諦めて過ぎ去るのを待つ。拒否の意思を言葉にして、どこかへ行ってもらおうとするものはいない。ただ顔を伏せ、そこに何者も存在しないかのようにじっと押し黙る。
これが社会主義市場経済ということなのか。日本にはアクティブな乞食文化は失われたが、ホームレスは(中国やアメリカと比較できる規模ではないかもしれないが)沢山いる。公園にいて可視なもの、自治体に追い出されて放浪するもの、ネカフェにいて不可視なもの。それと比べ、中国のこの堂々とした乞食文化はいったいどういうことだろう。研究したい。


19:34
旅舎で夕飯。旅舎の女性ふたりと客の男性ふたりと食卓を囲む。
普通話なのに全く聞き取れない。いつものことだ。
せっかく中国人といっしょに飯を食っているのに、終始緊張して気が気でなかった。なんとか聞き取ろうとするのだが、単語単語が耳に入ってくるだけで、文脈は全くつかめない。当然、口を挟むことなど到底できない。つらい時間だった。

どうしたらいいんだろう。

中国に来て、中国人の中国語を聞きまくれば、いつか聞き取れる日が来ると思っていた。このままではその日を迎えることなく留学最終日を迎えることになるだろう。
中国人の中国語をいくら聞いても、わからないものはわからない。
わからないゆえに蓄積しない。中国人たちの発音が耳を抜け、それを分析しようとしたときにはもう次の発音が通り過ぎていく。ひとしきり会話が終わったあとには、疲労感しか残らない。手元にはなにも残っていない。

中国の本やドラマは面白くない。
その原因の一端は俺の中国語能力にあるということに、今年になってから気づき始めた。だって、村上春樹の中国語版を読んでも全然面白いと思えないのだから。小説それ自体でなく、それを受け取る俺との間に問題があった。
中国語ができるようになれば、中国語によって摂取するあらゆるものが面白くなるはずだ。テレビも本も広告も。
さっきの晩餐はとても賑やかだった。中国人というのは言葉の応酬が日本人の比にならないくらい激しい。俺もあれを聞き取って、笑えるようになりたい。そして口を挟めるようになりたい。

中国語に関しては、たぶん学校で教科書を使って勉強するしかないのだと思う。
あと、もっと根本的に、会話そのものへの態度を変える必要があるのかもしれない。俺は本当は日本語でさえ断片を聞き取ってわかった気になっているにすぎないのだ。日本人との会話だって、他の奴が何言ってるのかわからないときがあるし、わかっているけどどこで笑えばわからないこともある。

宿のみんなが居間で近所の住民と「殺し屋」を遊んでいる。人狼みたいなゲーム。おれも前やったがクソつまらなかったし、やり方がよくわからなくてただただ辛かった。
いまは居間の隣の寝室でベッドに寝転がり、居間から聞こえてくる話し声に聞き耳を立てている。たまに聞き取れるが、笑いどころはほぼ100パーわからず。定期的に爆笑が起こるが、俺は真顔のまま。

安心する。この状態がいちばん好きなのかもしれない。他人がこちらを気にせず振る舞っているのを、外から見る。こちらはひとりだから気楽だ。ほっとする。
ひとりが好きだ。

宿 寧波住宅建設の対面、消防通道の看板の門を入って左手

0:15


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20時ごろに散歩に出かけ、夜の天一広場と外灘を歩き、なんの感慨もなく22時すぎに戻ってきた。きょうは昨夜からクソみたいなリズムが続いているから、外を歩いて少しでもまともな生活の感じを取り戻したほうがいいと思ったので。

戻ってからシャワーを浴び、宿のみんなと雑談。と言ってもやはり聞き取れないし喋れない。ここの人たちは話すスピードが軒並み速いし、なんか語彙がおれの知らない領域ばかりから選択されてる気がする。そもそもおれの語彙が少ないのが問題だが。

嫌だなあ、と思っていたら、おかみさんのスマホから日本語が聞こえてきた。『夏目友人帳』だった。このアニメがとても好きだと、作中の妖怪と神社に関する理念がこんなに素晴らしいのだと語ってくれた。
そこからみんなが日本のアニメの名を挙げはじめ、アニメと日本の話になり、普段から親しんでいる話題に軸が移動したおかげで、多少なりとも食いついていけるようになった。この分野なら語彙もある程度の受け止め体制ができているし、ストックフレーズ的な考え方のパターンも形成されているので、こちらの作文もやりやすい。

ただ、こんなにまでお膳立てしてくれたのに、やっぱりおれはうまく会話ができなかった。おかみさんが「おすすめのアニメある?」と聞いてきたのに、いざという時にパッと思い浮かばず、多すぎてなんともいえないとしか言えなかった。
頭の中に知識はある。あとはそれを引っ張り出す訓練とスピードなんだ。
結局、宮崎駿が一番有名だ、と答えたものの、おかみさんが「初期の作品は感動的だったけど、後期、たとえば『風立ちぬ』なんかはあまり良くなかったわ」と意外なことを言い放った。おれはこれになんとなく答えづらくて、そのまま流してしまった。
これに答えるために、ふだん宮崎駿を見たあと、いちいち日記に思ったことなんかを書き留めたりしているんじゃないのか?
まさにこういうときのためにおれは中国に来たんじゃ?中国人に日本人のアニメ観を伝えて、より高次の認識に引っ張り上げてやろうなんて上から目線の思惑があったはずだ。アニメ以外でも、とにかく中国人に中国語でなにかの理論に基づいた話をして、考え方を変えてしまいたいと思っていたはずだ。
なのにいざという時にまるでダメ。
ふだん日本人にはプレゼンも飲み会での語りもできているのに、言語が変わるとタジタジになる。日本語なら……日本語だったら、おすすめのアニメをたくさん紹介し、宮崎駿の魅力を存分に伝えられたはずなんだ。くやしい。

でも、なんだかんだ言ってさっきの雑談はたのしかったしうれしかった。
おれはいつも通り全然ダメダメだけど、おかみさんのおかげで、最後の最後になにかができた感触が持てて、今日という日の仕上がりがまるで違うものになった。ありがとうございます。
おれもこんな人になりてえなあ。