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ごくつぶしぶろぐ!

Gokutsubushi's Blog

村上春樹とジョジョの共有しているものについて

村上春樹が好きだ。昔から好きだったわけじゃないけど、この1年で一気にハマってしまった。今も北京で親から郵送してもらった『遠い太鼓』を読んでいる。

また荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』も好きだ。こちらは中学で第一部から読み始めて、第七部まで律儀に追っていった。現行の『ジョジョリオン』はもうしばらく読んでいないけれど、日本に帰ったら遅れを取り戻したいと思っている。ほかに『魔少年ビーティー』や『ゴージャス・アイリン』、『バオー来訪者』なんかの作品もひととおり目を通している。

 

村上春樹を読み始めるにつれて、頭にあるアイディアが浮かんできた。村上春樹荒木飛呂彦、この2人にはいささかの共通点があるのではないか。そしてその共通点こそが、僕を引きつける作品の核心部分なのかもしれない。すでにどこかで指摘されているかもしれないが、その共通点と思しきところをいくつか挙げてみる。

 

 

1.欧米文化の影響(内容の普遍性)

作品に出てくるアイコンが欧米的で、日本の読者のみを想定しているというよりも、世界のどの地域でも理解可能になるような配慮がなされている。

ジョジョのスタンド名はまず「タロットカード」から、ついで「世界的に有名なバンド・アルバム」からつけられている。非常に普遍的で、世界の誰でもすぐに入っていける名前だ。こういうネーミングが多い。また第一部はイギリス、第二部はアメリカ、三部と四部が日本で五部がイタリアといった具合に、舞台が日本に限定されない。おのずと登場人物たちも日本人的な思考に終始しなくなる。それが他の日本の少年漫画とは一線を画した味わいを生んでいる。

村上春樹の普遍性についてはもはや言うまでもない。題材はギリシャ悲劇をベースにしたものが多く、そこに日本文学や禅の思想がプラスされ、なんとも形容しがたい村上文学を形成している。出てくるアイコンはパスタ、ワイン、レコード。欧米すぎるほどに欧米だ。物語の登場人物たちはマクドナルドを襲撃し、ジョニーウォーカーカーネルサンダースを名乗り、カフカを名乗る。誰にでも理解できる普遍的なアイコンで溢れている。

 

2.翻訳調の文体

両者とも文体が奇妙だ。正直に言って、まともな日本語ではない。これは1の「欧米文化の影響」にも通じる特徴だろう。どうしようもなく翻訳調で、日本語的な日本語でないのだ。おそらく村上だけでなく、荒木も海外文学・映画の翻訳されたものを不断に摂取していて、その文体に大きく影響さているのだと思う。

第一部のディオ「人の名を!ずいぶん気やすく呼んでくれるじゃあないか」。ふつう日本語はこんなふうには言わない。言い回しが英語の翻訳的だし、そもそも人の名をどう呼ぶとかって難癖のつけ方自体が日本人的な発想でない。でもすごく味がある。

ノルウェイの森』の一文「一ヶ月の旅行は僕の気持ちをひっぱりあげてはくれなかったし、直子の死が僕に与えた打撃をやわらげてもくれなかった」。文法的にはもちろん正しいのだが、小説家の書く日本語としては異端である。「旅行に行っても僕の気持ちは回復しなかった」がふつうの日本語の構文であることは間違いない。村上はしかし無生物主語の構文をあえて選び、しかも「ひっぱりあげる」「やわらげる」と小説の語彙としては非常に陳腐で廉価なものをあえて採用する。翻訳文的だ。そして「~してくれなかったし、~もしてくれなかった」も明らかに英語的な表現だ。

 

3.特徴的な比喩

「確実!そうコーラを飲んだらゲップが出るっていうくらい確実じゃッ!」や「軌跡は渦巻きのようにッ!蚊取り線香のようにッ!おれに迫っているッ!」など、ジョジョには特徴的な比喩が頻繁に出てくる。ふつう漫画は小説に絵という新たな次元を付加したものなのだから、絵が担当するべき「イメージ」部分は極力文に担当させないのが一般的だ。なのに荒木は積極的に比喩を、しかもかなりめちゃくちゃな比喩を用いる。この不自然さ、意味のわからない面白さが読者を引き付ける。読んでいて、ケツの穴にツララを突っ込まれたような気分になる。

村上も巧みな比喩表現を多用する。そして荒木と同じく、意味がわからない。たとえば、「春の熊のように君が好きだ」。もしくは「特殊な飢餓感」を「湖に浮かぶボートの下にある海底火山」に例えたこともあった。これらの比喩のなかで比べられるふたつの事物の距離は遠く、容易には結びつかない。にも関わらず、僕たちはその比喩をなぜか受け入れ、小説の中へスムーズに入っていく。その両者にはどこか本質的な相似がある。

比喩は欧米文学に欠かせないものだ。一見異なる両者の共通点を読者に発見させ、作者の言わんとする内容のより本質的な理解へと誘導する。簡単に言えばメタファーという世界認識の仕方を、村上も荒木も共有している。

 

4.主人公の姿勢(「やれやれ」に代表されるある種のクールさ)

承太郎はじめ歴代ジョジョの口癖に「やれやれ」があるが、この「やれやれ」はまた村上文学の主人公の特徴的な台詞としても広く知られている。この台詞の裏にあるクールさはそのまま両者の主人公の世界に対する態度の共通性を表している。

物語では、「なにか」が起こる。それは大体において悪いこと、「事件」である。敵がスタンド攻撃をしてきてピンチに陥った、生活の中で自分の思いどうりに物事が運ばない、などなど。そのときジョジョは「やれやれ」と言い、村上春樹の主人公もまた「やれやれ」という。これはまず「起こってしまったなにか」を正面から受け止め、それを直視し、その不幸に肩をすくめるということに他ならない。作品は不幸や悪を描写し、主人公はそれに見舞われる。非常に受動的な態度に見える。だが主人公はその「起こってしまったなにか」の深刻さにいささか嘆息しながらも、同時に、それをなんとか対処するぞ、という態度をこの「やれやれ」を通して表明してもいる。

ジョジョは「やれやれ」と言いながらも敵を倒す方策を考える。もしくは敵をなんとか倒したあとに、その役回りの煩雑さに「やれやれ」と肩をすくめる。文句をたれているようでいて、自分の役割から逃げていない。

村上文学の主人公も同様だ。彼らは孤独を引き受け、世間の「くだらない奴ら」に心底辟易し、「ここはひどい世界だよ」と絶望する。だが決して文句をたれて終わりではない。彼らはパスタを茹で、音楽を聴き、本を読み、部屋を掃除する。外に出て人と会い、女と寝る。くだらない世の中で生き続ける。

「やれやれ」は諦めではない。困難、悪、絶望、孤独の存在を確認し、その巨大さにいささか肩をすくめながらも、それを自分自身の問題として受け入れるぞという態度の表明だと僕は受け取っている。ジョナサンも承太郎も「僕」も、まずはクールに現状を受け止め、ついで自分のベストを尽くす主人公だ。僕はこういう主人公がたまらなく好きだ。

 

5.日常描写

これは4の「主人公の態度」でも触れたが、村上文学の主人公は日常を生きる。そして村上はほとんど執着を感じさせるほどに細やかに日常部分を描写する。よく言われる「パスタ」だ。主人公の「僕」はパスタを茹で、部屋を掃除する。これは小説にとっては枝葉末節のようだが、僕が読んでいていちばん心を打たれる部分であったりする。部屋の中で村上春樹を読んでいると、外に出ようという気になる。日常を運営し、当たり前のことをこなそうじゃないかという気持ちになる。これについては内田樹が書いているのでぜひ読んでほしい。http://blog.tatsuru.com/2009/06/24_0907.php

僕は荒木も似たようなことをやっていると思う。第七部はレースという非日常を描いた作品だが、ジョニィとジャイロの日常部分も丁寧に描写されている。彼らは野営中には紅茶を入れ、コーヒーを入れ、レースの疲れを癒そうとつとめる。ふたりでユーモアに富んだ(ほぼレースやストーリーの本筋とは関係ないような)会話を楽しみ、与えられた時間でコミュニケーションを大事にする。

僕たち読者は日常に生きている。僕は村上春樹ジョジョを読むとき、どこか自分の生活に新たな意味、価値、おもしろみが発見されていくような感覚をおぼえる。日常をちゃんと運営していくことの意義を教えられているように感じる。

 

 

久しぶりに日本語の文章を書いたらついつい長くなってしまった。

 

昨日はクラスメートのイギリス人が主演するシェイクスピアの劇を鑑賞してきました。英語だったけど字幕があったので楽しめた。最高だった。日本に帰ったら全集を読みたいな。おもしろいモノに出会うとほんとうに気分がいい。根暗でも、人生悪いもんじゃない、という気がしてくる。