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Gokutsubushi's Blog

少年ジャンプ新連載『学糾法廷』感想と、「教育問題」とは何なのか。いじめ問題に見る、社会問題の構築。

 小畑健先生が作画を担当し、原作を榎伸晃先生(新人でしょうか?)が担当する新連載『学糾法廷』が昨日のジャンプで始まってました。

 

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 僕の中の漫画ナンバーワンは小畑健×大場つぐみの『DEATH NOTE デスノート』なので、小畑先生の漫画がまた始まってとてもうれしい。小畑先生の作画はヒカ碁デスノの頃とはかなり変化して、いかにもカートゥーン的な、デフォルメされた絵柄になりましたね。漫画をテーマにした漫画『バクマン』を描いている間だけ、故意にああいう「いかにもマンガ」的な作画をしていたんだと思っていたのですが、どうも違ったようです。どちらもいいと思いますが、個人的にはヒカ碁中期~デスノ後期までの絵柄がいちばん好きですね。

 

 では『学糾法廷』の感想を。感想といっても中身の批評はしません。

 

めちゃくちゃ、だけどそれでいい

 

  『学糾法廷』第1話は、めちゃくちゃでした。どこかの小学校に問題が起こると小学生弁護士と小学生検事が派遣され、学級法廷で決着をつける「学級法廷制度」。裁判官はもっと幼い幼稚園児でなぜか温水。弁護士の犬神暴狗くんには犬歯しかないし検事の判月鳳梨ちゃんはプリキュア。担任の先生は小学生に口げんかで負けちゃう。

 めちゃくちゃです。そして言うまでもないことですが、漫画がめちゃくちゃなのはいいことですよね笑。暗殺教室だって食戟のソーマだって、ドラゴンボールだってワンピースだって設定は荒唐無稽です。少年漫画は面白いことが第一の存在意義であって、正しさは問うべきでない。

 こういうコミカルな少年漫画の内容についてあーだこーだ言うのは野暮というものですから、品評めいたことはしません。

 

 ただひとつだけ、感想というかこの漫画を読んでふと思ったことを言いたいのですが、今の日本社会って「論破」を良しとするというか、痛快に思う風潮があるんですかね。日本人って基本的に和を以て貴しとする精神性なので、相手の言い分に破綻を見つけて徹底的に攻撃することはあまり望まなかったと思うんです。勝敗が明確で遺恨が生まれやすい「白か黒か」でなく、大岡裁きみたいな人格や利害に鑑みた決着、「玉虫色」の判決の方を好んできたはずです。そこには周囲の人間関係への気配りがあったし、完全勝利の形をあえて取らない「いき(粋)」な心意気があった。

 僕の考え方ですが、論理とは相手方を叩きのめして自分の便宜を図るための手段であってはならない。闇の中から確かなものを見出して組み立てていき、できるだけ誠実な結論を導くプロセスこそが本来の《ロゴス=ロジック=論理》ではないでしょうか。人間の理性が単に相手を陥落させるための攻城兵器に堕してしまったら、僕はかなしい。

 

 『ヒカルの碁』『DEATH NOTE デスノート』は人間の意志と理性の輝きを見事に描いた傑作でした。小畑先生の活躍を応援し、『学糾法廷』の今後の展開にも期待しましょう。

 

漫画の感想については以上!ここからは脱線します。いわゆる教育問題について考える。現場の問題そのものではなく、その社会学的な認識論を。

 

 

「教育問題は深刻化している」のか?

 

 『学糾法廷』の第1話は、こんな煽りから始まります。

2012年いじめ問題、2013年体罰問題。世はまさに『学級崩壊時代』― 

 

 ”「いじめ」「体罰」「不登校」といった「教育問題」が、最近になって深刻化してきている。これは由々しきことだから、政府・文科省は課題の解決法を模索し、学校は相応の対策を講じ、家庭は子どもが問題化しないよう教育に力を入れなければならない。”

 こういう言説が、最近しきりにメディアを賑わしていますよね。こうも取り上げられると、本当にそういう問題が事実として増加したかのように思えてくる。

 こうしたパースペクティブや危機感自体を否定はしませんが、社会学的に誠実な意見かと言うと、NOと言わざるを得ない。「教育問題」に限らず、我々は「社会問題それ自体」の数や実態を認識することはできないのです。いじめや体罰の数が増えているのか減っているのか、深刻化しているのか落ち着いてきたのか、実のところ、我々には何もわからないのです。社会学を志す僕のような人間にも、大学の教授にも。

 

 結論から言えば、いじめや体罰不登校が増えているとは言い切れません。それが増えているように見える原因は、いじめなどの現象それ自体の変化にはなく、むしろそれを見る我々の変化にあるように思われます。いじめが深刻化したというより、社会がそういう目で見るようになった。

 いじめも体罰も昔からあったし、むしろ昔のほうがひどかったかもしれない。しかしそれを見る我々の眼が変化したから、今になって問題化されるわけであります。社会に問題視されたものが、社会問題になる。

 

「いじめ問題」が「問題化」されるパターン

 

 ここでは「いじめ」を例にとって、いかに「問題」が「問題」として社会に認知されるようになるかの仕組みを紹介します。

 まず、日本における「いじめ」の公的な統計調査は、全国の学校がいじめとして確認した数、すなわち「認知件数」に依拠しています。いじめかどうかの判断を下すのは、被害者でもその親でもなく、学校です。学校が見落としたケース・認めないケースは存在しないのと同義であり、事実としてのいじめの数は把握できない。わかるのは学校の認識だけなんです。

 

 ではその「認知件数」は、どのように推移してきたか。

 

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 (いちばん見やすいので、時事ドットコム:【図解・社会】いじめの認知件数の推移(2013年12月)の画像を引用しました。商業目的でないこのブログに画像を引用して引用元を明示することは「私的目的での使用」の範疇を出ないので、著作権法違反にはあたらないものと判断します。文科省のオリジナルのデータは、

『平成22年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」について』

 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/23/08/__icsFiles/afieldfile/2011/08/04/1309304_01.pdf

を参照してください。)

 

 さて、1985~2012年の認知件数を示した左側のグラフを見ると、1985年、95年、06年に線の断絶と山、12年に山があることがわかります。ゆるやかに推移していた認知件数が、あるタイミングで急激な伸びを示している。2006年に関しては、わずか1年の間に10万件近く増えている。

 

 このデータは、いじめという現象自体の数の推移を示しているわけではありません。2006年に突如として全国のいじめが10万件増えたわけではない、そんなはずはない。

 

 1985年(たしかデータ作成は86年)、1995年、2006年、2012年。この3つの山は、いずれも衝撃的ないじめ事件が発覚し、センセーショナルに報道された時期と符号します。86年の鹿川君の自殺事件(「葬式ごっこ事件」)、94年の大河内君の自殺事件、06年の福岡の中2自殺事件。そして2011年、記憶に新しい大津の中2自殺事件です。こうしたいじめ自殺事件はどうしても市民の関心を集めやすいので、テレビや新聞が連日にわたり大々的に取り上げる。

 こうした衝撃的な事件が起こりメディアが取り上げるたびに、文科省はより広範ないじめに対処すべく、いじめの定義を変化させてきました。線の断絶は、定義の変化を表します。94年には「学校の内外を問わない」として場所の限定を取り払い、07年には「当該児童生徒が苦痛を感じている」なら立派ないじめであるとし、13年には「児童に対して児童が行う行為」と、当事者たちが必ずしも児童でなくてもいじめと見なされるようになった。どんないじめも見逃さないようにと、いじめの定義の範囲がどんどん拡大されていきます。

 こうして事件の直後から、定義の拡大と社会的な関心の高まりによって、「瞬間視聴率」的な認知件数の急上昇が起こるのです。

 

 衝撃的な事件が起こるたびにいじめは社会の「関心事項」となり、メディアはさかんにいじめ問題を取り上げ、その後の数年間社会はいじめに対して敏感になる。いじめが「社会問題」になるといじめの定義が変化し、学校はそれまで見逃してきた・見過ごしてきたケースもいじめと見なすようになり、統計に見られるようないじめの認知件数は数倍に跳ね上がる。小学生が急に暴力的になったわけでも、中学生が急にキレやすくなったわけでもない。それを見る社会の目が変わったんです。

 

 

まとめ

 

 今回のケースは「いじめ」ですが、「体罰」も「不登校」も社会問題すべてに通低する仕組みを共有しています。殴る蹴るの体罰なんか昭和の軍国主義的な空気のなかではアイサツみたいなもんでした。現象としては今よりよっぽど多くてひどかったのに、学校も親も殴られる本人さえも問題視してなかったゆえに問題でなかったんです。戦後は家を手伝うのに忙しくて学校に行かない子どもが沢山いましたが、社会が問題としなかったために特段騒がれはしなかったんです。

 大事なのは、社会問題は現象そのものとそれを見る僕たちの合作である、ということの理解かと思います。僕たちの感覚器官がカントのいう「物自体」を認識できないように、僕たちは「社会自体」を見ることはできません。自分に見えるものだけを見ている。そしてその見方は、時代や地域によって変化します。シャーロック・ホームズは作中で堂々とアヘンを吸っているが、誰も咎めない。19世紀のイギリスでは合法だからです。今の僕たちが麻薬を問題と思うから問題に見えてくるのであって、そこに「問題自体」などないんです。

 

 

 われわれは、それを犯罪だから非難するのではなくて、われわれがそれを非難するから犯罪なのである

(『社会分業論』エミール・デュルケーム